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ラジオが生んだ「幻」のトリックスター

 「なんちゃっておじさん」


*関連トピック:「口裂け女」

*本稿は2012年にTokyoFM『あ、安部礼司』の番組サイト
『アベマグ』に掲載したものの転載です。
なんちゃって




「恐くない都市伝説」が大ブレイク

  「都市伝説」といえば基本的には“オカルト系”のウワサが中心で、日本では「口裂け女」こそが全国的に流布した最初の本格的「都市伝説」だった……という ことは本稿の「口裂け女 〜 MY FIRST 都市伝説」で解説したが、実は「口裂け女」ブーム勃発の直前、その後の都市伝説史のなかでも異例な“非オカルト系”のウワサが大流行し、社会現象を巻き起 こしている。それが「ナンチャッテおじさん」だ。

 1977年から78年にかけて、主にJR山手線の車内(*1)で意味不明のパフォーマンス(?)を行う「変なおじさんが」いた、という一般人からの「目撃情報」がラジオ、テレビ、雑誌などに大量に寄せられ、大きなニュースとなった。
 パフォーマンスには無数のバリエーションがあるのだが、僕が最初に耳にしたのは次のようなものである。テレビのニュースでやっていたと、母親から聞かされた情報だったと思う。

  山手線の座席に、麦わら帽子に半ズボンという子どものようなカッコをしたおじさんが座っている。やはり子どものように、通路側にお尻を向けてイスの上に正 座をして、開けた窓から顔を出して外の景色を眺めていたそうだ(当時の山手線の窓は客が勝手に開け閉めできたので、こういう後ろ向きスタイルで車窓の景色 を楽しむ幼児が多かった)。
  すると突然、おじさんの麦わら帽子が風に煽られて飛ばされてしまう。おじさんは「あっ!」と叫んだ後、車内中に響き渡る大声で「えーん、えーん! 帽子 がっ! 僕の帽子がっ! えーん!」と泣きはじめた。いつまでたっても泣きやまないので、隣に座っていた女性が見かねて「ちょっと、あなた、大丈夫?」と 声をかける。おじさんは泣きじゃくりながら、なにやら手もとのヒモをスルスルとたぐり寄せた。ヒモの先には、さっき飛ばされたはずの麦わら帽子が結びつけ てあった!
 おじさんは帽子を再びかぶるとピタリと泣きやみ、両手で頭の上に大きな輪をつくるようなポーズをしながら、満面の笑みを浮かべて叫んだ。
「なーんちゃってっ!」
 乗客がア然としているなか、おじさんは次の駅で平然と降りていった。

  「なんじゃそりゃ?」としか言えないチープな小話なのだが、ブーム全盛時はこうした小話、いや「目撃情報」が次から次へと各種メディアで取り上げられ、週 刊誌などでは「私も『ナンチャッテおじさん』を見た!!」といった内容の特集が常時組まれていた。某全国紙に「ナンチャッテおじさん」に名乗り出てもらう ための「たずね人広告」が掲載されたり、「ナンチャッテおじさんの歌」のような便乗系レコード、また各種目撃情報をアーカイブした「ナンチャッテおじさん 本」も複数発売されたりしている。子どもたちの間では(いや、大人たちの間でも)「なーんちゃって!」は流行語になり、頭の上で輪っかをつくる間抜けな ポーズも、先生から叱られたときなどにおどけてみせる定番のリアクションとなったのである。


オレ、昨日、渋谷駅で見たゼ!

  僕の小学校は出没率が最も高いとされる山手線沿線だったため、校内での「ナンチャッテおじさん」ブームはかなり過熱していた。毎日のようにクラスの誰か が、「オレ、昨日、渋谷駅で見たゼ!」とか「また会っちゃったヨ。今度は原宿にいたヨ」などと、「なーんちゃって!」の決め台詞でオチとなるさまざまな目 撃談を披露していた。「見た」というヤツは、当然、その日一日だけのクラスのヒーローとなって、一気に周囲の人気を集めてしまう。まだ目撃する機会に恵ま れていない僕などは、「いいなぁ、僕も見たいあぁ…」と心からうらやましがっていた。

 当時、渋谷にある児童会館という施設が仲間内の遊 び場になっていて、よく恵比寿から渋谷まで山手線を利用していたのだが、電車に乗るたびに友だちと小走りで後ろの車両から先頭車両までを移動し、「ナン チャッテおじさん」らしき人を見つけ出す遊びに夢中になった。なんとなく様子のおかしい人とか、ちょっと変な服を着たおじさんに目をつけると、「あの人、 『ナンチャッテおじさん』っぽくない?」などとヒソヒソ言い合って、ピッタリとマークする。さりげなく観察しつつ、「なーんちゃって!」のパフォーマンス が始まるのを今か今かと待つのだが、結局、全部カラぶりだった。

 それもそのはずで、実はこの「ナンチャッテおじさん」、存在していなかったのである。ブームから1年ほど経過したころ、ウワサが完全なデマだったことが判明してしまうのだ。


衝撃の「ネタばらし」報道

  「ナンチャッテおじさんさん」が初めてメディアで語られたのは、1977年5月、ニッポン放送のラジオ番組『たむたむたいむ』(*2)でリスナーからの 「目撃情報」のハガキが読まれたときだった……とされている(*3)。これが同局の『鶴光のオールナイトニッポン』『タモリのオールナイトニッポン』でも 取り上げられ、絶大な人気を誇る2つの番組に大量の「目撃情報」が寄せられるようになり、ブームに火がついたのだそうだ。
 その当時、タモリと鶴 光の間では「『ナンチャッテおじさん』を流行らせたのはウチの番組だ!」という論争が展開され、それぞれの番組でお互いをガチでディスりまくり、リスナー を巻き込んだ大論争に発展した。このいがみ合いはかなりシャレにならないものだったらしく、当時は若者たちの主要メディアだったAMラジオの深夜放送の歴 史のなかでも、かなり大きな「事件」として記憶されている。
 ところが、全盛期をむかえたブームがちょっと下火になったころ、そもそもの発端と なった最初の「目撃情報」について、放送作家の小森豪人氏(*4)が「あれは自分が仕組んだネタだ」と衝撃的な告白をしてしまう。これに関しては、「い や、『ナンチャッテおじさん』に仕掛け人なんかいない。売名行為だ!」と否定する関係者も多かったようだが、とにかく小森氏の「ネタばらし」が多くのメ ディアで大々的に報じられ、「なぁーんだ」という失望感と、「社会を混乱させやがって!」という怒りを世間にもたらし、「ナンチャッテおじさん」ブームは 一気に収束してしまった。

 突然の「ネタばらし」で最大の迷惑を被ったのは、メディア関係者でも世間の大人たちでもなく、ついつい「オレも見たゼ!」などと「偽証」して周囲の注目を浴びてしまった子どもたちだ。
  思えば、「見た、見た!」と言いはっていたヤツらは、僕のクラスではいつも同じ顔ぶれの3人ほどの男子のみで、全員が「お調子者の目立ちたがり屋だが、い まひとつみんなから相手にされてない」みたいなタイプだった。そういう微妙な立場の子が「ナンチャッテおじさん」人気に便乗したくなる気持ちはよくわかる し、大人なら「そっとしておいてあげる」という対処もできるのだが、子どもはそうはいかない。
 当然、その子たちはクラス中から「うそつきっ! うそつきっ!」と責め立てられ、しばらくは完全に相手にされない存在に格下げされてしまった。


消えてしまった「変なおじさん」たち

  今、あらためてブーム全盛時のオフィシャル(?)本『元祖ナンチャッテおじさん』(笑福亭鶴光編/ペップ出版/1977年)を読んでみると、当時、僕らよ り一世代上の中高生だったラジオの深夜放送のリスナーたちが、「ナンチャッテおじさん」のウワサをもっとおおらかに、ユルく楽しんでいたことがよくわか る。リスナーの「目撃情報」を大量に収録した本書のなかで行われているのは、「ナンチャッテおじさん」という固有のキャラクターを追跡することではなく、 「こういうちょっと変な人って、どこにでもいるよね」という前提のもと、各地のリスナーが「町内にいる“変なおじさん”」のおもしろエピソードを報告し あって笑う、という「遊び=ゲーム」のようなものだ。報告が真実か創作かもほとんど問題にされず、エピソードがおもしろければただアハハ!と笑うだけ、そ れ以上の詮索はヤボ……といった暗黙の了解がリスナーのコミュニティ内にあったようで、それはいかにも当時のAM深夜放送のノリだ。

 考 えてみれば、80年代に入るころまで、東京の町々には必ず「変なおじさん」、たとえば、子どもを見ると必ず理由もなくどなりつける人とか、いつ見かけても 妙な歌を歌っている人とか、意味不明の一人ごとをずーっと言いつづけている人とか、近所でも有名な「名物おじさん」的な人物がいたものだ。町内の子どもた ちにあだ名を付けられたり、ときにはからかわれたりもしていたし、周囲の大人たちもいろいろな意味で気を使いながら接してはいたが、それでも、そういう人 はそういう人なりに町内のコミュニティのなかでみんなと共存し、「自分の居場所」を持っていた。そう、ちょうど赤塚不二夫の『天才バカボン』で描かれる風 通しのよい町内のように。

 いつからか、そうした「変なおじさん」が「問題視」されるようになり、なかには子どもに話しかけただけで「不審者」として通報されるケースもあったりして、「バカボンのパパ」的な存在は知らないうちに町内から姿を消してしまった。
 「ナンチャッテおじさん」のブームが巻き起こったのは、そういう時代の変わり目だったような気がする。「単なるデマ」としてメディアから消えた「ナンチャッテおじさん」は、町々から排除されてしまった昭和の「変なおじさん」の総称なのかも知れない。


『元祖ナンチャッテおじさん』(笑福亭鶴光編/ペップ出版/1977年)
「ウチの番組が元祖や!」を主張していた笑 福亭鶴光が編集した「ナンチャッテおじさん」本の決定版。この時代のことを知らないとまったく意味不明の内容で、なんの説明もないままにひたすら「変なお じさん」の「変なエピソード」が綴られる。巻末には「ナンチャッテおじさん目撃者名簿」や、目撃したときに情報をメモするための「目撃情報カード」などが 付いている。



『元祖ナンチャッテおじさん』の巻末に掲載される「目撃情報カード」。要するにラジオ番組に送付するための「ネタ帳」である。



『あなたは見たか! なんちゃっておじさん』(ザ・ハンダース)
お笑い集団ザ・ハンダース(桜金造やアゴ勇が在籍)が1977年にリリースした7インチシングル。満員の通勤電車の殺伐とした雰囲気を少しでも楽しいものにするため、「ナンチャッテおじさん」は日々ガンバっているのダ、という内容。



「ナンチャッテおじさん」のポーズ
両手の指先を頭のてっぺんにあてがい、腕で大きな輪っかをつくって「なーんちゃってっ!」と叫ぶ。面と向かってやられるとかなりイラつくポーズである。




【注釈】

1 JR山手線の車内
「ナンチャッテおじさん」は山手線車内で最初に「目撃」されたとされ、以降、「目撃情報」のエピソードのほとんどは山手線を舞台にしていた。ブーム期後半になると、ほかの沿線での「目撃情報」も増え、ウワサは全国規模となる。

2 『たむたむたいむ』
1973年から79年まで、ニッポン放送などで放送された平日深夜20分間の帯番組。作詞家のかぜ耕士などがパーソナリティを担当していた。

3 『オールナイトニッポン』
1967 年から現在まで放送されているニッポン放送が誇る長寿番組。若者が深夜にラジオを聴く、というライフスタイルそのものを創出した。特に70年代までは、各 曜日のリスナーが独自のコアなカルチャーを形成するなど、現在のWEB上のコミュニティのような性質も持っていた。

4 小森豪人
放送作家、小説家、作詞家。本名の「馬場祥弘」名義でも活躍し、特に童謡「森のくまさん」の訳詞者として有名。また、多数の子ども用「なぞなぞ本」の作者としても知られている。




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