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楳図かずお

「最凶のトラウマメイカー」




 小学校の4年生のころ。
 僕は風邪をひいてしまって、3日ほど学校を休んでいました。欠席2日目に、同じ班の女の子たちが3人やってきて、「お見舞〜い!」などと言いながらお菓 子や本、お手紙などを持ってきてくれました。当時、クラスの女子の間ではこういうお見舞いが流行っていて、誰かが休むと女子たちがツルんでお宅訪問する習 慣があったんです。一種の遊びですね。

 で、問題は彼女たちが持ってきた本。数冊の少女マンガでした。
「この人の描くヤツね、女子の間ですっごく流行ってるの。少女マンガだけど、男子が読んでも絶対におもしろいから。お布団のなかで読んでね」
 なんて言って、彼女たちは帰っていきました。


 「こりゃあまずいなぁ」と思いましたね。
 読まずに学校に行けば、「どうだった? どうだった?」と詰問されるのが目に見えているので、読まないわけにはいかない。めんどくさいなぁ……なんて思いつつ、とりあえず手にとってみました。

 楳図かずお『赤んぼう少女』。

 な、なんだこりゃ? これが少女マンガ? だって、『エコエコアザラク』よりも『恐怖新聞』より絵が怖いじゃないか。女子たちは本当にこんなのを読んでるの?
 ほかの数冊もすべて楳図かずお。『へび少女』など、すべて過去の『少女フレンド』連載作だったと思います。

 で、微熱でフワフワしている状態のまま、布団のなかで『赤んぼう少女』から読みはじめたんですが、もう、この体験自体がひとつの悪夢のようなもので、ああいう感覚って初めて味わった。
 超常現象的な「恐さ」とはまるっきり違う。
 スプラッター的な生理的嫌悪感とも違う。いや、それももちろんたっぷりあるけど(そう、「顔に硫酸」とか、やっぱり印象的だった!)、そこが怖いんじゃない。なんか、もっと別。もっともっと禍々しい。


 そ の当時は、それがなんだかわからないまま、とにかく得体の知れない恐怖に取りつかれて、読んでいるときに指がページに触れることにすら一種の不快感を覚え ました。なにかもう、本という物体自体が「悪いもの」「汚いもの」「不吉なもの」に思えて、おかしな匂いさえしてきそう。ページに触れた指から、なにかド ス黒いものが皮膚を通じて体内に入ってくるような……。なのに、読みはじめたら止まらないんです。

 楳図作品の魅力。その核心ってなんだろうなぁ?と、今、つらつら考えてみるに、結局、「人が恐い」ってことだと思います。しかも、自分がよく知っている(と思っている)人。自分に近しい人。自分を愛していたはずの人……。

 『ママがこわい』というタイトルの作品がありますが、これこそ楳図マンガの「恐さ」を的確に表現していると思う。全面的に信頼していて、その人の前では無防備になれるような「こちら側の人」が、ある日、あるとき、「あちら側の人」になってしまう。その瞬間。


 『洗礼』のお母さんが自分の娘に、世界中の邪悪さと狂気をすべて集めたような「真実」を話すあの瞬間(しっかし、よくこれが『少女フレンド』に連載されたなぁ!)。


 あるいは、『おろち』の「姉妹」に登場するあの妹。献身的に姉に尽くしてきた彼女が、最後、長らく隠してきた姉への憎悪をあらわにするあの瞬間。


 それを境に、世界のすべてがグニャリと歪んで見えてしまうような、そういう数々の瞬間。


 人って、わからない。人の心のなかって、わからないよね。……というごくごく「あたりまえ」のことが、実はめくるめく恐怖の源泉なんだってこと、これほど明確に気づかせてくれる作品はほかにないと思います。

 あの日、僕が布団のなかで初めて読んだ楳図作品に感じた言いようのない恐怖も、結局、そういうこと。

 もっと言えば、僕たち男子が『ドラえもん』なんぞを読んでいたときに、クラスの女の子たちは「こんなもの」を日常的にまわし読みしていたんだ、という驚 き。いつもバカ話を一緒にしている屈託のない女子たちが、家では一人、『へび少女』をむさぼるように読んでいる……っていう、不思議なイメージ。女の子た ちって、「本当」は、「なに」を考えているんだろう?
 そういう意味で、僕は楳図作品に登場する「被害者」のように、身近な女子たちに対して強烈に「他者」を感じたような気がします。


 小学校の高学年前後って、男女の精神年齢差が最も広がるなどとも言われています。
 同じ年頃の男子がギャグマンガと「正義が悪をやっつける」という「神話」的作品に夢中になるのに対し、「人間関係」の「恐さ」を極限まで拡大した楳図作 品に女の子たちがひかれたのは、確かに精神年齢の差の問題が大きいと思う。で、この差って、大人になってもあんまり縮まらないような気がする。

 てなわけで、最後に僕がおすすめする「楳図の最高傑作」をご紹介。賛否両論ありまくりでしょうけど、やっぱり個人的には『わたしは真悟』です。


 楳図作品の魅力って、先述のテーマ&ストーリー的な魅力以外にも、作家性みたないところに負う部分も大きくて、要するに楳図かずおって「不可解」なんですよね。
 単純に言えば、うまいのか、ヘタなのか、頭がいいのか、悪いのか、「計算の人」なのか、「感性の人」なのか、まったくわからない。いっくら読んでも作家性が謎なんです。


 構図は変、セリフはめちゃくちゃ、ストーリー展開だってあまりにたどたどしい。全作品が崩壊寸前っていうか、言ってしまえば「すべてが失敗作」のような作家だと思う。なのに、なんなの、この絶大な魅力は?っていう感じ。


 そこが最大の特徴で、それがぜんぶブチこまれているのが、『わたしは真悟』だと思う。


 最初のページから最後のページまで、はっきり言って、なにひとつわからない。ストーリーを要約してみてって言われても、ひとこともしゃべれない。だけど、明らかに作家は「伝えよう」として描いていることだけはわかる。

 鼻持ちならない難解な実験作を前衛的手法でわかりにくく描くっていう、貧乏根性と自己愛に満ちた「手抜き」をしているわけじゃない。「わかってよ! わ かるでしょ?」というテンション「だけ」が作品を貫いている。その「熱風」みたいなもの「だけ」で読者を打ちのめしちゃう。これだけ意味不明な物語が、こ れだけおもしろいのは、そのせいだと思う。


 何 度読んでも、あの「悟」と「真鈴」が東京タワーから飛び降りる場面(なぜ飛び降りるのか、飛び降りたことがストーリーにどう影響したのかはまったくわから ないんですけど)、そして後半、謎の音を聞いた「真鈴」が叫ぶ「これは…"子供が終わる音"だわっ!」ってセリフ(このあたりにくると、もはや自分がなに を読んでいるのかすらわからなくなってるんですけど)、この2カ所で絶対に泣いちゃうんですよね。


 なにがなんだかわからないまま泣いちゃうっていう感じ、これって通常のオトナにはめったにないことです。いわば異常事態。でも、赤ちゃんや幼児は日常的にこの感覚を体験しているはず。
 『わ たしは真悟』という作品は、オトナの生理からとっくに消去された「幼児の感覚」を、ほぼ暴力的に強制再インストールするような作品だと思う。そういう意味 では、ミルンの『くまのプーさん』やランサムの『ツバメ号とアマゾン号』など、一部の奇跡的な児童文学作品と通底するところがあると思う。

(2009.12.7)


赤んぼう少女―楳図かずお作品集 (角川ホラー文庫)

 

へび女 (ビッグコミックススペシャル)

初期代表作『赤んぼう少女』『ヘビ女』シリーズ。どちらも60年代の「少女フレン ド」に掲載された。少女たちに広まった楳図人気は男の子にも波及、当時、男子がこぞって「少女フレンド」を買うという(この時代としては)異常な事態が起 こりました。このあたりの作品は僕の幼少期、70年代後半まで「禁断のバイブル」ってな感じで女の子たちに連綿と読み継がれていましたね





おろち


洗礼(第1巻)


MynameisShingo(volume1)
わたしは真悟 第1巻






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